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高須博久 氏(会員番号38)

   ■白洲次郎の魅力
   ■高須光治との思い出

白洲次郎の魅力

  白洲次郎に凝っている。日本男子が軟弱化して心配だという本がたくさん出版されるので、自戒の意味も含めて読んでいる。
 彼は明治35年生まれ。裕福な家庭に育ち、若くしてケンブリッジに留学。10年の英国生活を通じてプリンシプル(原理・原則)を身につける。身長も180cmと、欧米人に引けをとらなかった。

 第二次大戦後、吉田茂首相を助けてGHQを相手に渡り合う。例えば、GHQの高官が白洲に対して「あなたの英語は上手だ」と褒めた時に、「あなたももう少し努力すれば正統な英語が話せるようになる」と答えた。さすが白洲正子が惚れた男だと納得した。

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高須光治との思い出

 高須光治は明治30年(1897)豊橋に生まれた。私にとっては祖父の弟である。親は家業の豊川堂を手伝わせたかったようだが、光治は画家になりたくて家を飛び出た。梅原隆三郎か岸田劉生のどちらに師事しようか迷ったらしいが、明治45年の劉生の個展を観て感銘を受け劉生の門をたたいた。

 大正4年、劉生を中心として11人で草土社を結成した。仲間と一緒に劉生の隣の家に住み、毎日画業に励んでいた。豊橋市美術博物館の所蔵する「高須光治君之肖像」はその当時に描かれたものである。劉生は白樺派の人々とも交流を深めていたので、光治には東京生活がとても刺激的であったと思われる。

 私が5歳ころだったと思うが、大塚の家で何日かを光治と一緒に過ごしたことがある。光治は朝起きるとラジオを聴いて英語、フランス語を勉強していた。もちろん美実の本もたくさん読んでいた。ときには謡曲も練習していた。

 午前中は海で泳いだ。家から海は100メートルほどであった。私は「亀さんになって」と頼んで、光治の背中にまたがって浦島太郎を演じていた。帰り際にはアサリを採った。浜辺で薪を拾い、家へ置くとその足で農協へ行き、米、味噌、缶詰を買って昼食の準備に取り掛かる。砂出しをしたアサリで味噌汁を作る。濃い味の缶詰も美味しかった。釜で炊くご飯もおこげが楽しみだった。

 夕方涼しくなると光治はイーゼルを立て、キャンバスに向かう。当時描いたと思われる絵が大塚の家にある。絵に描かれている楠は高さ5メートルぐらいに見えるが、今では20メートルほどに育っている。この絵の裏には三谷海岸も描かれている。

 夕食もあさり汁と缶詰。夕食後は寝るまで絵を描いてもらった。折込広告の裏白紙が紐で綴じられていて、次から次へと描いてもらう。「犬描いて」「ぞうさん描いて」・・・・。ほとんどが動物だったと思う。光治はさぞかしいやだっただろうと思うが、ためらいなく一本の線で描いてくれた。目はアーモンドのような形で、動物が生きているようだった。

 光治は「絵は描くものをよく見て描くんだよ」と言っていた。

 こんな話がある。私が中学生のころ、光治が花瓶に生けた花を描いていた。花瓶はまっすぐ立っていたのに、絵では傾いている。つい私が「花瓶はまっすぐだよ。これじゃ倒れちゃうよ」と言ったら、「わしにはこう見える」の一言だった。

 ある時、画学生が自分の絵を見てほしい一枚の絵を持ってきた。私には上手に描けているように見えたが、光治は一目見て、「まだまだだねえ。もっとよく見て描きなさい」。

 また、ある時、これは劉生の絵ではないかと一枚の絵を持ってきた人がいた。光治は絵を見て「これは代々木の風景を描きに行った時のものに似せてあるが、あの日の空はこんな色ではない。劉生はこういう空は描かない」と一刀両断であった。なんで私がこんな場面に立ち会っていたのか自分でも不思議に思うが、得がたい体験をすることができた。

 しばらくして、光治が日新町(現日進市)へ転居したため、私が家に残った絵の管理人になった。光治から「展覧会があり、美術館の人と日通が取りに行くからこの絵をあの絵を出しといて」と電話が入る。劉生の絵と光治の絵を準備する。自分の絵のお気に入りは「藤原君之肖像」と「夏の小路」それと「老婆の肖像」であった。たびたび旭町の藤原宅へも出かけた。

 1987年7月25日から8月16日まで豊橋市美術博物館で「高須光治と草土社展」を開催してくれた。図録もでき、立派な展覧会となった。我が家にある絵はちいさな絵ばかり。しかもキャンバスに描く前の紙板に描いた下絵のようなものが多い。この時出品された「婦人像」の大きさに驚いた覚えがある。光治は展覧会を大変喜んでいたと同時に関係者にとても感謝していた。

 光治は1990年93歳で没した。1997年10月25日から11月9日まで、生誕の地である呉服町・豊川堂の2階ホールにて「生誕100年記念 高須光治展」を開催した。横田正吾さんが、「わしに任せろ」と言ってくれたおかげで、発起人は光治と親しかった白井一二氏、岩瀬正雄氏、冨安昌也氏が引き受けてくれた。お三方は会期中毎日受け付け係りを「勤め人に戻ったようだ」と楽しんでお勤めくださった。私も白井氏から「光ちゃんから東京の有名な文化人を紹介されてとても嬉しかった。光ちゃんはとても器用な人で、わしの『美童子』の表紙を版画で作ってくれた。あのころは寝るのも忘れて話し込んだもんだ」。冨安氏は「高須さんは何でもよく知っていた。絵のことも、文学も、音楽もみんな詳しかった。どこで勉強したのかな」。岩瀬氏は「それはだなあ私が高須さんに世話になったんだよなー」等々私の知らない光治を語ってくれた。残念なことに白井氏、岩瀬氏、横田氏はお亡くなりになった。光治を知る人も少なくなったが2年後にもう1度『高須光治展』を開きたいと考えている。


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