会員の声

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望月志郎 氏(会員番号621)

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MOTTIの探偵物語(その10)

「水門のある風景」1951年(続き・中村正義の美術館蔵)

 正義が昭和20年代に描いた一連の風景画は、生家のあった大橋通から自転車で行ける範囲で、絹田から徐々に南へと移って行ったという仮説の下に、この「水門のある風景」も柳生橋のすぐ下流にあった水門を描いたのだろうという推論に至りました。「豊橋いまむかし」という写真集には昭和初期の写真として柳生川の水門が掲載されています。「その6」で記述した小池橋のところというのがこれで、写真の説明には農業用の水を調整するためのものだったことが記されています。

 たしかにこの写真を見れば、新幹線の高架はおろか、家だってろくに建ってはいませんから、あの位置からでも東部の山は見通せたと思われます。戦後であっても豊岡中学出身の同級生の話では、昭和30年代前半には東田坂上から中岩田にかけては何もなく、家の柿の木に登れば、市役所も市民病院も見えたと言っていましたから、逆の位置からでも山は見通せたことでしょう。

 しかし、それにしてもこの絵のように近く見えるものだろうか、という疑問は残りました。が、今年の正月のことです。それこそ汐田橋のカーマホームセンターへ買い物に行ったのですが、汐田橋の上で渋滞のためノロノロ運転になり、そこから柳生川の上流方向を見た瞬間、この疑問は消えました。どんよりとした冬空の下で、弓張山系の山々は驚くほど近くに見えたのです。天候により、人間の目には山や島が遠くにも近くにも見える、ということは経験的に知っていましたが、この日は山がすぐそばに見えました。

 実は、この水門は花中町の紅久商店さんの前にあったもので、「その6」で「子供のころここで遊んだ」と語ったという人は紅久商店さんの三浦会長です。まだ「信じられない」と思われる方は紅久さんの前の堤防を乗り越え、水辺に近い位置にしゃがんで、はるか雲谷町の方角を眺めてみてください。ただ見ただけでは一部の山しか見えませんが、心の中で新幹線の高架を取り除き、才ノ神住宅もないことにして、普門寺の山を眺めるつもりで見てください。きっとこの絵のように、頭の丸い山が重なり合って続く風景を心眼でとらえることができるでしょう。

 その山々は晩秋のどんよりとした、しかし、空気自体は澄んでいる日であれば、すぐ近くにあるような迫り方をしてくるはずです。そして、見ているうちに懐かしい人々や町並みが脳裏に浮かんでは消え、自分が生きてきたこの土地がたまらなくいとおしく感じられると思いますよ。それが「あなた自身をめぐる旅」のクライマックスシーンなのかもしれません。いやぁ、映画って本当にいいですね。
(完)

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MOTTIの探偵物語(その9)

「水門のある風景」1951年(続き・中村正義の美術館蔵)

 この水門の場所を探して、あちこち情報集めに走り回りましたが、いずれも決め手に欠け、半ばあきらめかけていた平成23年の晩秋、名豊ギャラリーに写真展の申込をなさった方が奥三河の風景をテーマに撮影を続けておられたので、この絵を見せて心当たりはないかと尋ねました。すると、奥三河では全く見たことがないが、写真仲間なら知っている人がいるかもしれないとおっしゃって、ご友人に問合せをしてくださいました。写真仲間というのはすごいもので、数日後にはいくつかの回答が来て、その中に「これは柳生橋のすぐ下流にあった水門ではないか。戦後まもない時期には、この古ぼけた水門が水をせき止めている姿が、米軍の攻撃に必死に耐えた日本の姿に重なると言って、多くの画家が写生に来ていた」というものがありました。

 そしてまた同じ頃に、ある画廊の経営者の方から、永井繁男さんの作品の中に「タートルネックの赤いセーターにブレザー姿の男が柳生橋に近い魚網会社のそばの公園を散歩している」ものがあるが、これは中村正義を描いたのではないかと思われる、何か確認する方法はないだろうか、という問合せが来ました。永井先生と中村正義は大変に親しく、この当時はよく一緒に写生に出かけたりしていたそうで、倫子さんの話では正義は確かにこんなスタイルで出歩くことが多かったとのことですから、たぶんそうではないか、ということに落ち着きました。

 これらの話から昭和20年代の正義の作品を地図上にプロットしていくと、「絹田のガード下」を起点に線路の西側の坂を上り、今回の調査対象にはなっていませんが、西駅の「ガスタンク」(作品名はガスタンクですが、あれは正式にはガスホルダーと言います)、西小田原と野黒町を結ぶ「跨線橋」などへと続き、中郷の交差点を越えて汐田橋の倉庫が建つ「運河」、そこから「小池神社の辺り」へとつながっています。これらの点と線で結ばれる柳生橋界隈では、正義は永井繁男先生に描かれる側にもなっています。

 「であれば、この水門は柳生川にあったとされる、それのことかもしれませんねぇ」水谷豊が演じる杉下右京なら、コーヒーを片手にそうつぶやくでしょうか。

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MOTTIの探偵物語(その8)

「水門のある風景」1951年(続き・中村正義の美術館蔵)

 この水門はどこにあったものか。農業用の水利樋門らしいが、このような山が近くに見えて、水門の向こうには黄色く色づいた田んぼが広がるような地形のところはどこだろう。十津川警部なら「亀さん、もう一度、新城方面へ飛んでくれませんか」と相棒の亀井刑事に言うだろうな、と思いました。

 そんなある日、義母が入所している下地町のグループホームで秋祭りが催され、屋外の模擬店で焼きソバやおでんを食べながら、何気なく石巻山の方を見たところ、その背後の山がこの絵の山容と似ていると感じました。一緒に焼きソバを食べていた女房には「ちょっと行ってくる」と言い残して車を走らせ、嵩山小学校の辺りから本坂峠周辺の川を見て回りました。豊川用水がこの辺りを通っているのですが、残念ながら水路の幅は狭く、そのような樋門が設置されていたとは思えませんでした。

 しかし、石巻町森岡の辺りを流れる神田川の河原から本坂峠の方を見ると、やはり山の姿はこの絵の雰囲気と似ています。3時間ほど、石巻、和田辻、嵩山の辺りを行ったり来たりして、下地のグループホームに戻ったときには祭りは既に終わっていました。義母は自分の部屋に戻ってうつらうつらしており、女房はポツンと一人で待っておりました。その後、私がどのような目に遭ったかはご想像にお任せします。

 このことを豊橋市美術博物館に行って大野主任学芸員に話すと、「それだったら、後藤館長が嵩山小学校の出身ですよ。後藤は姫街道の研究者でもあるわけですから、そういう水門のことも分かりますよ」と前館長の後藤さんの思わぬプロフィールを教えてくれました。そこで居合わせた後藤館長に尋ねましたが、「水門のようなものはなかったですね」とのことで、神田川沿いの水利樋門仮説はあえなくボツになりました。


 この水門については様々な方から情報が寄せられ、牟呂用水沿いでは、賀茂の照山という採石場の近くにこれと似た水門があったということと、朝倉川と牟呂用水が交差する通称ダーダー橋のところに洪水防止用の水門があったという2件をいただきました。それぞれの場所に行って見ましたが、いずれも現存はせず、この辺りにこのような形で存在していたという話をもとに、現地で水の流れ方、山の見え方を確認しました。しかし、どちらもこの風景とは全く異なるものでした。

 やはり柳生川かもしれない、と考えるようになったのは、それからしばらくして名豊ギャラリーで写真展をやりたいという方から情報をいただいた時でした。

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MOTTIの探偵物語(その7)

「水門のある風景」1951年(続き・中村正義の美術館蔵)

 この水門は豊川上流域のどこかに現存するか、もしくは見覚えがあるという人がきっといるはずだ、と思いましたが、まずはこの手の水門が何を目的に作られたのか、それを確認しようと考えました。そうすることで、探す場所も範囲を限定できると読んだわけです。

 どういうわけか私の同級生には大手ゼネコンに入社した者が多く、全国を股にかけてダムや大きな建造物を造ってきた男が数人いますので、彼らの意見を聞きました。するとその中の2人から明快に「これは農業用の水利樋門だ。お前の住んでいる地域なら豊川用水か牟呂用水にこんなのがあるのではないか」という答が返って来ました。そこで、豊川用水の管理事務所に絵の写真を持って行って尋ねたところ、「現存する樋門にこういうものはない」とのこと。では、もっと上流の方にこういうものはないかと聞くと、大ベテランの方が「これはかなりの水量がある場所です。4門もあって、こういう古い堤防があって、堤防にはこんな石段があるというのは下流域ですよ。昭和26年の絵ですか。じゃあもう残っていないでしょう」とつれない返事。手がかりの糸は切れてしまいました。

 そうは言っても、あきらめの悪い私は津具の役場に電話を入れたり、茶臼山の美術館にファックスを送ったりして、こんな水門をみたことはないか、と問い合わせを続けました。私たち一般人はこの絵を見れば「水門」という呼び方をしますが、土木業界の人はこれを「樋門(ひもん)」と呼ぶのだということも、この過程で知りました。

 こうしてあちらこちらに問い合わせをしているうちに、現存しない水門ならば、産業遺跡の調査をしている先生がいるから、その方に聞いたら、というアドバイスをもらい、豊橋工業高校の教諭であった石田先生を紹介されました。石田先生に電話したところ、すぐに調べてくださり、浜松市の安間川というところに、これと同じ型のものがあると教わりました。ネットで調べると全く同じ形で4門の頭首工と呼ばれる堰が検索できましたが、残念ながら山は遠く、堤防の形も違うものでした。

 しかし、今度はこの安間川頭首工の写真を何人かの友人に見せると、「なんだ、これなら柳生川にあるぞ。バローのところになぁ、4門じゃあなくて2門だけだけどやぁ」というので、ひょっとしたら柳生川にはもっと下流に4門の水門があったのかもしれない、と思うようになりました。安間川も上流域に行くと2門の堰があるからです。とは言え、柳生川の下流から山があんな具合に見えるわけはないさ、という思いも強く、この段階では柳生川説を採る気にはなれませんでした。

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MOTTIの探偵物語(その6)

「運河」1950年頃(続き・中村正義の美術館蔵)

 中村正義の美術館でこの絵を見たときに、すぐこれは柳生川だと思いましたが、どこの橋を描いたのかが分かりませんでした。しかし、名豊ギャラリーの近所で仕事をしている人の中に、少年の頃はこの辺りを縄張りにしていた人がいることを思い出し、会社に戻ると旅費精算もそこそこに、その人をつかまえて尋ねました。すると実に明快に「ああ、これは汐田橋だら。今のカーマやヤマナカがある、あっち側から中郷の方を見ると、昔はこういう倉庫があっただよ」との答が返ってきました。そこで早速ヤマナカへ行き、何も買わないのに駐車場に車を停めて柵を乗り越え、川の護岸部分まで下りて行きました。

 なるほど、今はもう倉庫はありませんし、橋も新しいものに架け代わっていましたが、この絵の通りの雰囲気が残っていました。ギャラリーの仕事はほったらかしにして、会社の車でこんなことをしていて良いのか、という自責の念がちょっと頭をかすめましたが、名探偵・浅見光彦になった気分で意気揚々とギャラリーに戻り、その日の日報には「訪問先・カーマHC、展示用資材調査」と書いておきました。これは内緒の話ですよ。


「水門のある風景」1951年(中村正義の美術館蔵)

 一番やっかいだったのはこの絵です。最終的にはロータリークラブの会合で倫子さんが映画の説明をしたときに、「子供のころはここで遊んだ。この絵の通りだった」という人が現れ、決着がついたそうですが、その答と「たぶんここだろう」という私の推論は一致しました。それは、柳生川の柳生橋と汐田橋の間にある小池橋のところに昔は水門があって、それを下流の方から描けばこうなる、というものです。と言えば「えー!?・・・それはないらぁ」というブーイングが聞こえてきそうですが、その結論に至った経過を記載します。

 背景を見るとかなり山が迫っているので、当初はこれも豊川上流のどこかだろうと考えました。水門から20mぐらい離れて水面に近い位置から見上げるようにすれば、2階建ての家の屋根はこんな感じに見えて、水門から3キロぐらいのところに標高差500mぐらいの山が連なっているとすれば山もこんな風に見えるかなと計算しました。ただし、山と水門の間は起伏のある山間地ではなく、平地が続いていて、ある地点からすっと山がそびえるような、そんな地形の所だろうと予測しました。

 川幅は、水門1つが1間半の幅として、4門プラス柱も入れると15mぐらい。豊川上流域ならそういう場所がどこかに残っているだろうと最初は高をくくっていました。

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MOTTIの探偵物語(その5)

「風景」1948年頃(続き・名古屋市美術館蔵)

 この「風景」が醸しだす雰囲気とよく似たものを愛知大学に近いホームセンターの屋上で見つけた私は、中学生の頃に見た「ある景色」を思い出しました。

 昭和39年の春、時習館高校の入試の直前に、私は一緒に受験する友人らと自転車で学校の下見に行きましたが、帰りには行きとは別の知らない道を通って、小池神社の近くへ出ました。「ここはどこだろう」と思ったそのとき、友人の一人が正面に見えた丘を「おっ、あれは向山だ」と叫んだのです。私の方向感覚では向山がその方角に見えるはずはなく、この友人の初恋の女生徒が向山墓地に近い公営住宅に住んでいたので、こいつは何を見ても向山に見えるのだろうと思って、「バカかお前は。向山があんな方に見えるか」と言ったところ、近所のおじさんがそれを聞いていて「ありゃあ、間違いなく向山だに」と言ったので、私はそれ以来、方向音痴だということになってしまいました。はるか昔の苦い記憶ですが、その記憶にある向山はこの「風景」に描かれている奥の方の丘陵と似ているのです。

 画面左の森が小池神社、その奥の学校のように見える建物が当時の豊橋女子高校、工場のような建物は、昔の地名で言えば石田にあった製糸会社ではないか。1948年、昭和23年なら、この辺りにはこんなのどかな風景が広がっていたかもしれません。小池神社から小松原街道の坂を上りきったホームセンターの場所には、当時はやはり大きな製糸工場がありました。そこの2階から見れば、ひょっとしたらこんな「風景」が見えたのかもしれません。

 しかし、それにしても嫌なことを思い出しちゃったなぁ。方向音痴ではないんだけど・・・。


「運河」1950年頃(中村正義の美術館蔵)

 この絵は川崎の中村正義の美術館で拝見しましたが、画題からして「ああ、柳生川だ」と思いました。私たちが子供のころには何故か「柳生川運河」と呼んでいたからです。豊川の川べりにもこんな感じの倉庫があったように記憶していますが、それはほとんど製材の倉庫で、運送会社の倉庫は記憶にありません。また、川の広さが豊川よりずっと狭い感じなので、柳生川に間違いないと思ったわけです。

 しかし、柳生川とはいってもこの橋は何橋なのか、こんな倉庫をどこかで見た記憶があるけれど、それはどこだったか。私ではそれを特定できません。それでも、「そう言えば、あの辺のことにやたら詳しいおっさんがいたなぁ」と思い出し、豊橋に戻って聞いてみることにしました。

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MOTTIの探偵物語(その4)

「風景」1948年頃(続き・名古屋市美術館蔵)

 これはどこを描いたものか、という問いに対して、田原、新城、作手と諸説がありましたが、それぞれの土地に詳しい人たちからはいずれも否定的な答が返ってきました。

 実は、私はこの絵を見たときには1948年の作品ということが頭になく、「ああ、田舎の風景だ」と思ったものですから、豊橋ではないという思い込みがありました。1948年、つまり昭和23年当時なら、豊橋でもちょっと町中をはずれればこんな場所はあったわけですが、私には両親の生まれた長篠や大野のイメージが浮かんだので、倫子さんには「田原とか二川とかではなくて、もっと奥の方、例えば田口とかその手前の海老あたりならこんな風景があったかもしれません」と伝えました。すると倫子さんも「そう言えば、よく飯田線に乗って写生に行ったという話を聞きました。津具という土地がありますか?そこに親しい画家がいたそうですが」とおっしゃるので、「きっとそうですよ。行ってみたらいかがですか」と勧めてしまいました。

 映画の予告編の中で、私が地図を示してあれこれと説明しているシーンがありましたが、あのときはそんな会話を交わしていたのです。後述の「水門」でも、これは豊川の上流ではないかと思えたので、いくつかの場所をお伝えし、倫子さんも映画監督もそれを頼りに新城市の牟呂用水取水口やら、さらに上流の奥三河まで「描かれた場所」を探しに行ったはずなのですが、おそらく空振りに終わったのではないかと気を揉んでいます。

 と言うのは、この「風景」でも「水門」でも、後になって「ひょっとしたら、ここではないか」と思える場所が市内に出てきたからです。「水門」のことは後で書きますから、まずはこの「風景」について、ここではないか、と推測した場所の説明をします。

 平成23年秋のことですが、愛知大学の近くのホームセンターへ買い物に行き、その屋上に駐車してふと向山の方角を見た瞬間、その姿がこの絵の丘と似ていると思ったのです。そして左手の小松原街道の方を見下ろすと、家並みこそ全く違いますが、よく似た角度で同じ空気を感じさせる風景が見えるではありませんか。そして、もう一度向山の方角に目をやった瞬間、50年近く前の記憶が突然よみがえりました。

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MOTTIの探偵物語(その3)


「風景」1948年頃(名古屋市美術館蔵)

 懐かしい風景です。牛小屋があり、放し飼いのニワトリが地面を突付いています。畑にはネギや大根が植わり、柿の木やイチョウの木は葉を落としていますから、春先の昼下がり。影の様子からすると、南西から北東の方向を見て描いたのではないかと思います。

 画面左の真ん中より上には竹やぶがあって、その向こうには現代で言うと歩道橋のようなものがあるので、この下は線路とか河川になっているのでしょう。学校の校舎のような建物もあります。その建物の右奥には高い煙突と工場のような造りの長い建物が見えます。そしてその向こうは小高い丘で崖になっています。丘の上はたぶん松林ですね。

 この絵を描いた地点は2階建ての家をこんな角度で見下ろしているわけですから、右端の道路からは10メートル以上高い場所でしょう。この風景もどこにでもありそうですが、右端の道路はちょいとばかり広いので、名のある街道かなと思ってよく見ると、少し先で途切れていますから、何々街道というほどの道ではなさそうです。

 倫子さんの話では、この絵を見た人は「田原の方ではないか」とか「二川というか、岩屋のあたりにもこんな風景があった」とおっしゃっていたそうなので、私はまず赤羽根の出身者に聞いてみました。すると「いやぁ、田原にはこんな建物の学校はなかったでしょう。それに右奥のこんな山が見える場所はないですよ」とのこと。そして「むしろ新城とか、作手とか、そっちの方じゃないですか」というコメントが返ってきました。そこで今度は新城在住の方と作手村の出身者にこの絵を見てもらうことにしました。

 まずは新城の人に問い合わせましたが、「うーん、これだけじゃあ無理だに。新城も合併して広くなったでね」とのお答え。広くなったかどうかという問題ではないと思うのですが、とにかく、見覚えがないとのことなので、次は作手村の出身者にこれを見てもらいました。すると「作手はもっと山です。こんな平坦なところはありません」とのこと。あまりにもそっけないので「作手カントリーのあたりは平地じゃないの」と聞き返すと、「作手カントリーが平地ですって?あの起伏が読めないようではゴルフのスコアはまとまりませんね」と、ゴルフで110を切ったことがない私の神経を逆なでするような返事が来ましたので、意地でも作手説は採用しないことに決めました。

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MOTTIの探偵物語(その2)

「豊橋の街」1947年頃(続き)

 この絵の左の方に描かれた人たちは、他の風景の描写とは違ってシルエットのような表現になっています。なぜ正義は人物だけをそのように描いたのか、それが気になって何度も見直しました。そうしているうちに、私も自分の父親のことを思い出しました。

 生前、物忘れが激しくなった父は、私と兄を混同することがしばしばありましたが、昭和20年6月の豊橋空襲の際に、中心市街地で唯一焼け残った額田銀行ビル・通称「ぬかビル」(今のカリオンビル)の近くで飲食店を営んでいた父は、兄と共にこの絹田のガード下まで必死に走り、焼夷弾の炎から逃れました。その兄は事故で若くして死にましたが、80歳を過ぎた頃から、父は一緒に逃げたのは私だったと思うようになったのでした。私は昭和23年の生まれですから、「違うって!俺はまだ生まれとらなんだ!」と、何度も言うのですが、戦時中のことを思い出すたびに父は「あのときは、おそがかったのん」と話しかけてくるのでした。

 このシルエットで描かれた人物、それは焼け跡を歩く私の父と兄かもしれない、そして、私と同じように、自分に親しい人物に擬してこのシルエットを見つめる人が他にもいるにちがいない、私はそんな風に思うようになりました。「父をめぐる旅」は倫子さんひとりの映画では終わらず、多くの正義ファンにとっても、大事な人の思い出をよみがえらせるものとなるのではないでしょうか。


「家」1947年頃(中村正義の美術館蔵)

 こういう小さな煙突のある板張り、ガラス戸の家は、昔は市内のいたるところにあったと記憶しています。こういう家並みも珍しいものではなく、中村正義の生家に近い湊町、船町、北島あたりに漂っていた空気はこういう感じだった気がします。戦後まもない1947年にこうした古い家並みが残っていたということは、当時の中心市街地からあまり遠くなくて、かつ空襲で焼けなかった地域ですから、おそらくは正義の生家の近くでしょう。

 とは言っても、残念ながら私には場所を特定することはできません。ただ、大橋通りから船町、湊町の一帯にかけてはほとんどが焼けて、運良く、通りをはさんで一列だけ焼け残ったという話も聞きます。この絵はそうした場所を描いた可能性もありますから、昭和15年ぐらいに生まれた方なら、ご記憶にあるかもしれません。「なんだね、こりゃあ!私の実家じゃないかね」とおっしゃる方が出てきたりして。

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MOTTIの探偵物語(その1)

 映画「父をめぐる旅」がほぼ完成し、5月1日に川崎で試写会が行われたそうです。友の会の宮田会長もご覧になったようですから、その感想を投稿していただけるのでは、と期待しています。映画監督からは、まだちょっと無駄があるので削って行く、とのコメントがあったそうで、細かい修正が施されて公開されるのは9月ごろになるとか。待ち遠しいですね。

 この映画は既に皆さんご存知のとおり、中村正義とは何者であったのか、というテーマで、正義と親交のあった人や作品に描かれた場所を娘の倫子さんが訪れ、そこから中村正義の人間像を浮かび上がらせようというものです。異端児、風雲児、・・・さまざまな呼び方をされるものの、一言では形容しきれぬ懐の深い画家に対して、その作風を知る人の多くは「本当はどんな人?」という疑問を抱きますが、「父をめぐる旅」はそれを解き明かすことが狙いだったようです。

 推測ですが、おそらく制作者にはあらかじめ正義に対する何らかのイメージがあったのだと思います。しかし、撮影が進むに連れて、倫子さん自身が、父親に対して抱いていたイメージが変わっていった、というか、描かれた風景も含む何か大きなもの、それ自体が実は父親であると感じたらしいですから、まさに筋書きのないドラマだったわけです。ドキュメンタリー映画の面白さを充分に味わえるのではないでしょうか。

 さて、この映画を制作するに当り、倫子さんから「初期の風景画はどこを描いたものかということを調べているのですが、分かりますか」という質問をいただきました。昭和20年代の5作品について、その場所はどこだろうか、というわけです。私は昔の風景に詳しいわけではないのですが、分からないことを簡単に「分かりません」と言うのは「男のコケン」に関わると思ってしまう「見栄っ張り」なものですから、あれこれと調べることとなりました。以下、探偵MOTTIの「描かれた場所」探し物語です。

 この5作品はいずれも先般の名古屋市美術館、練馬区立美術館での展覧会に出品され、図録にも掲載されていますので、その掲載順に私の回答をご紹介します。ただし、間違いなくここだ!と言えたのは2ヶ所だけで、あとは私の勝手な推測です。皆さんも一緒に考えてみてください。


「豊橋の街」1947年頃(中村正義の美術館蔵)

 これはもう誰が見ても、絹田の東海道線ガード下から守下の交差点方向を見た絵ですよね。そうお答えしたところ、「他の方もそうおっしゃっていました」とのことで、これは簡単に解決!しかし、この絵をよく見ると、人物はシルエットのように描かれています。描かれた場所よりも、なぜそういう描き方なのか、しかも、そのシルエットには不思議な躍動感があり、今度はそれが気になりだしました。

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MOTTIのギャラリーだより(その12)

 文化というのは、その国や地域の精神的風土を形成し、逆にまたそこから影響を受けて作品や生活様式として具現化するものだと思います。文化は美術、音楽、映画、演劇、建築など、さまざまな形で表現されるものの、根っこにあるのは「何を大切にしたいか」という精神的風土だと思います。

 ギャラリー勤務の当初は、文化の担い手というのは、文化勲章受章者だの文化功労者だのといった人たちであり、それに連なる文壇、画壇、その他、そうした分野の名のある人たちだと思っていました。当然、そこには厳しい修練に裏打ちされた、優れた表現能力があり、凡人には近寄りがたい世界だと思ってきました。

 しかし、そうした名のある先生方も、実は人間や自然に対するそれぞれの深い思いを持っており、それがその表現を支えているような気がしはじめました。それは、名前は売れていても作品に何か物足りなさを感じる作家もいて、そういう作品というのは描く対象への作家の感情が見えてこないことから、より一層、そうしたことを意識するようになったのです。

 そんなことから、文化とは表現者と鑑賞者の心の通い合いから生まれる何かだと思うようになり、逆に名豊ギャラリーで発表される方たちの作品の中にも、ああ、これは描きたいよね、と思わせる作品があることに気づきました。こうして、この地域に生きる人たちと心を通わせ、拙い技術であっても真剣に自分の感動と向き合い、それを形にしようとする人たちは、すべてが文化の担い手であると考えるようになりました。

 ギャラリーでの勤務が終わっても、「銭勘定+生きる喜び」、こんなことをテーマに私も地域の文化振興に少しでもお役に立ちたいと思います。長々と駄文を書き連ねましたが、ここで一旦「MOTTIのギャラリーだより」は筆をおくこととします。お読みいただき、ありがとうございました。「ふんけんクラブ」の演奏会にも是非、足をお運びください。

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MOTTIのギャラリーだより(その11)

 文化の担い手の話が脱線していますが、復旧までしばらくお待ちいただき、合唱の話を続けます。「ふんけんクラブ」の名前の由来は、ベートーベンの第九を豊橋でもやろうと言い出したJCの人たちが、市内の合唱団に声をかけて合同の演奏会として実施した際に、自分たちも合唱団を作ろうということになって、第九の最後の歌詞、ゲッテルフンケン(神の輝き)から命名したものです。30年前にはJCの会員だった人たちも70歳前後になり、今や「髪の(抜けた頭の)輝き」と揶揄されていますが、チャーターメンバーたちのJCの精神、つまり、貧困そのものをなくそう、愚者の楽園ではなく、高い倫理と厳しい社会規範を持つ平和社会をつくろう、という考えですが、それは今も団の活動の中で、ひょこっと顔を出します。

 団員の音楽的能力は決して高くはなく、それどころか、自分のパートの旋律を覚えていないときなどは、勝手に主旋律を歌い、自分のパートの中で「ハモッたぞ」と喜ぶような不届き者もいるぐらいです。しかし、そんな合唱団がステージに立つと、なぜか聴衆は一緒に口ずさんだり、ちょっとした仕草に笑ったり、時には涙を流したりします。その理由は分かりませんが、きっと何かお客さんの歩んできた人生と共鳴するものがあるのでしょうね。ここで笑わそうと計算した演出は半分以上失敗します。しかし、思いも寄らぬところで手拍子が起きたり、笑いが起きたりするのです。

 よく「売り絵を描く」という言葉を聞きます。画家にとっては不名誉なことだそうで。私なんかは「プロなら、売れない絵なんか描いたってしょうがないじゃん」と思ってしまうのですが、「売り絵を描く」というのが、信念を曲げて世間に媚びた絵を描くという意味なら、誉められたことではないかもしれません。しかし、私は「売り絵」という言葉が嫌われるのは、演奏会で笑わそうと思って計算した演出と同類の"あざとさ"が絵に表れるからではないかという気がします。

 売れるか売れないかは分からないが、心を動かされた何かを描いたとき、それが結果として売れた、ということと、こういうものを描けば売れる(入選する)だろうという打算で描いたところ、それも結果として売れた(入選した)、というのは、見る人が見れば違うのでしょうね。

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MOTTIのギャラリーだより(その10)

 えらそうなことを書いたついでに、文化の担い手はどういう人か、ということも、日頃の思いとして書いておきます。文化の担い手?・・・ずいぶん大げさな言い方ですから、つい、いわゆる文化人とか、その道の専門家を想起しますが、私が書こうとするのはそういった方たちのことではありません。

 前にも書いたように「音楽をやっている」と経営トップに思われていた私ですが、美術と同様に音楽についても大した知識は持ち合わせていません。「ふんけんクラブ」という男声合唱団で歌っていますが、楽譜は読めず、楽器も弾けません。歌うことに関してもジラーレといわれる声楽の正しい発声方法は身に付いていません。そんな私が「ふんけんクラブ」では標準的な団員ですから、つまり「ふんけんクラブ」はハイレベルの合唱団ではありません。しかし、それでも私は「ふんけんクラブ」は豊橋における音楽文化の立派な担い手だと自負しています。なぜか。それは「ふんけんクラブ」の演奏が聴衆に笑いと涙をもたらすからです。

 演奏会の成否を判断する指標はいくつかありますが、一番の要素は聴衆の感動です。しかし、聴衆の感動と言っても、それは売上高のように数字になって表れはしません。感動は拍手の大きさになって現れるという説もありますが、私たちの演奏会には同級生やら職場の同僚やらが来て、やたらと「ブラボー」を叫んだり、喚声ととともに拍手したりするので、これは当てにはなりません。しかし、ステージに立っていると、不思議なぐらい客席の心情は伝わってきます。

 豊根村で「ふんけんクラブ」の合宿をしたとき、最後に村民ホールで地域の皆さんに合宿の成果を披露しますから聴きに来て下さい、と有線放送でお願いをしましたが、急な話だったにもかかわらず、10人ぐらいが客席で聴いてくれました。(豊根村の人口のほぼ1%ですよ!豊橋なら3,500人の聴衆を集めたようなものです)そこで「千の風になって」を歌ったとき、その10人からある種の反応を感じたのですが、歌い終わって客席を見ると、一人のお婆ちゃんがハンカチで目頭を押さえています。何か胸に去来するものがあったのでしょう。他にも目を閉じて上を向いている人がいました・・・その人は退屈で眠っていたのではありませんよ。涙がこぼれないようにしていたんですからね。

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MOTTIのギャラリーだより(その9)

 ギャラリーの所長という仕事に4年間携わって来ましたが、私の任期はあと1年です。これまでの企画展の流れからすると、前任者の時代に行った冨安昌也先生の展覧会に続いて、中村正義、大森運夫、高畑郁子と来たわけですから、星野眞吾、平川敏夫といった方たちの展覧会をやらないといけないでしょうね。しかし、残念ながらそこまではやれそうにありません。それは後任への引継ぎとして、後日のお楽しみということにしましょう。

 ギャラリーだより(その1)にも書きましたが、この4年間で私自身の美術に対する考え方はかなり変わりました。社会はまず経済的に成り立たなくてはいけない、という考えは今も変わっていませんし、個々人の暮らしにおいても「衣食足って礼節を知る」という言葉があります。しかし、経済を質の良いものにするか否かは、文化の力が大きく影響すると思うようになりました。

 私たち日本人は「世のため、人のため」に働くことを美徳とし、「正直の頭に神宿る」というような言葉で誠実であることを尊んできました。しかし、一方で「正直者がバカを見る」という言葉の裏返しとして、要領よく振舞うことも時には必要という暗黙の了解を、社会的に形成してきました。こうした社会心理のようなものがどちらに転ぶかにより、思いやりに満ちた社会になるか、金がすべての世の中になるか、の違いが出てくると思うのですが、その微妙なバランスをコントロールするのが文化ではないでしょうか。

 格差社会という言葉が世界中に広がっていますが、たしかに100倍もの所得格差を当然視するような世の中は変だと思います。とは言え、それを是認する方たちは権力を握っていますので、私のような小心者はつい「御説、ごもっともで」と心にもないことを言ってしまいますが・・・。そう、「面従腹背」というのも社会心理の形成要因ですね。政財界のリーダーがそれを汲み取る度量を持てるかどうか、それもまた、文化の力だと思います。

 格差の問題だけについて言えば、経済学の小難しい議論をこねくり回さなくても、所得格差の大きな社会は購買力に広がりがなくなり、設備投資が滞って生産性が低下しますから、長期的な質の良い経済発展を遂げられないことは自明の理ですけどね。

 音楽であれ、美術であれ、あるいは文学、宗教であれ、文化にはそうした社会のありようを変える力があります。「礼節を知る者は衣食足らしむ」。それが、この4年間で私がたどりついた経済と文化の関係図です。

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MOTTIのギャラリーだより(その8)

 名豊ギャラリーで展覧会を開いたとき、高畑先生は80歳でしたが、全く年令を感じさせない元気なご様子で、打ち合わせのためにアトリエに伺うと「ほい、これをお食べ」とかなり油っこいお菓子を進められたりしました。先生も一緒に食べるのですが、私は後で胃もたれを起こしたのに、高畑先生はなんともなかったようで、美術博物館の大野さんに「高畑先生は化け物ですね」と言うと、大野さんは真顔で「ええ、あのアトリエに集まる人たちは皆、先生に生気を吸い取られるんですよ」と答えました。

 その翌年、大野さんが発表した「山姥」の絵を見て、モデルは高畑郁子だと思い、大野さんに尋ねましたが、「まぁ、ご想像にお任せします」と笑ってごまかされてしまいました。その作品は、大野さんにしては気持ち悪さが影を潜め、むしろ楽しさをにじませたものだったので、高畑先生がモデルだとすれば、大野さんの先生に対する尊敬やいたわりの念がこうした雰囲気になって現れるはずだ、と推測したわけです。

 「山姥」の感想を私は「楽しい絵じゃないですか」と大野さんに言いましたが、これがどうやら「望月は人人会の作品に慣れてきたようだ」と誤解されたようです。そのせいかどうか、平成23年は東京都美術館が改築を行うので、人人会は定例の展覧会を休止せざるを得なかったわけですが、人人会特別展として名豊ギャラリーでの開催という話になってしまいました。

 中村正義、星野眞吾らが創立した人人会については、私が述べるようなことは何もありませんが、その創立会員の一人である斉藤真一の、瞽女(ごぜ)が髪を梳いている絵が風伯の表紙を飾ったことがありました。そのときには賛否両論が渦巻いたと聞いていますが、私は素晴らしい作品だと思っています。目の見えぬ女性が桶に張った水に自分の顔を映して髪を梳くという、なんとも切ない情景をこれほどサラリと描く力量はすごいものだと思います。技術的なことは私には分かりませんが、定年間近のサラリーマンが、まだひょっとしてと、あるはずのない昇格を待つ姿を見るようで、胸が熱くなります。絵は人それぞれの思いを汲み上げる力を持っていますよね。

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MOTTIのギャラリーだより(その7)

 堀越雄展は名豊ギャラリーとギャラリー48で同時開催し、初日の夜、ギャラリー48で関係者の懇親会を開きました。そこには地元の人人会のメンバーも参加し、高畑郁子先生も出席しました。最初は「まぁ、軽く一杯やって、お互いに初めての人もいるから、顔合わせということで、・・・」と言っていたのが、オーナーの吉野君から次々と飲み物が出され、「おい、会費が足りんじゃないか」「いい、遠慮するな、うちにあった酒だ」というような次第で、酔いが回るうちに芸術論が戦わされるようになりました。

 その中で、ひときわ盛り上がっていたのが高畑先生とある若手の画家です。「先生の絵がなんで売れるのか分からん」「あんたなんかに分かってたまるか」「僕の絵は先生の絵より下手だとは思えん」「あんたには志が欠けてるんだよ」「ココロザシ?なんでそんなことが言えるんですか」「だってあんたにゃ、あんなきれいな嫁さんがいるじゃないか」・・・もう無茶苦茶な議論ですが、聞いているうちに、なんとなく高畑先生の言わんとするところが見えてきました。

 画家は飢え死にするかもしれないというときに、目の前にパンがあったとすれば、それを食べるか、それともデッサンの材料とするか、それぐらいの選択を迫られてやっと一人前になるという話を聞いたことがあります。若くてきれいな奥さんがいるような恵まれた者に、心を打つような絵は描けない、というのが高畑先生の言い分なのでしょう。「なるほど、そういうことからすれば、俺の女房は美人じゃないから、俺も芸術家になれたのかもしれんなぁ」と酔った頭の中で思いました。

 この席で高畑先生に改めて名刺を出したところ「名豊ギャラリー?あんたが所長さん?・・・うん、中部ガスがしっかりしないと、豊橋の文化はダメになっちゃうから、頑張っておくれよ」と、また訳の分からないことを言われましたが、この秋に先生が豊橋文化賞を受章されたことから、その記念展覧会として「高畑郁子展」を名豊ギャラリーで開催することになりました。

 なお、堀越雄展には同級生の女性がたくさん来ました。皆、堀君の早すぎる死を悼んでいましたが、中にはいい加減なのがいて、「堀君は?今日は来とらん?はぁ?死んだ?なーんだぁ、堀君に会えると思って来たのにぃ・・・」そして揚句のはてに「なんで望月君がここにおる?」と。彼は60歳のオバサンたちにとっては、なおもアイドルだったのです。

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MOTTIのギャラリーだより(その6)

 大森運夫展の後、現在までに名豊ギャラリーでは次のような企画展を実施しました。

平成20年 10月 大場厚 仲谷孝夫展  11月 山崎一司写真展〜最後の花祭り
平成21年 3月 堀 越雄展   4月 愛知の写実展   11月 高畑郁子展
平成22年 2月 三尾公三展   10月 水越武写真展
平成23年 3月 人人会特別展  5月 森下元康追悼写真展
10月 映画祭10年のあゆみ展

 これらの中で、私が自分の発案で実施したのは、水越武さんの写真展と森下元康先生の追悼写真展ぐらいです。その他の展覧会は外部から勧められたもので、大場厚、仲谷孝夫、堀越雄、三尾公三といった方たちは名前すら知りませんでした。友の会の皆さんからすれば、信じがたいことですよね。そんなギャラリーの所長なんぞ、普通ならあきれて相手にしなくなるものですが、勧めてくれた方たちは、作家の経歴、作風、特徴などを丁寧に教えてくれました。

 この中で、堀越雄君は同学年で中学、高校と一緒だったのですが、まさか彼が芸術の道へ進んだとは思いもよらず、旅先で不慮の死を遂げた彼の業績を偲んで展覧会を、という話があっても、「堀越雄って、そりゃあどういう人だね」というのが私の最初の反応でした。堀君は中学では陸上部に所属し、走り高跳びやハードル走の選手として活躍しており、そのきれいなフォームは女生徒の憧れの的でしたから、運動神経マルデダメオの私としては、ちょっと複雑な感情を抱いていた相手でした。高1のとき8組だった彼は体育祭のプラカードにエイトマンの絵を描き、躍動感あふれるプラカードは大いに話題になりましたが、私はそれを描いたのが彼だとは知らず、美術選択のクラスにはうまい奴がいるもんだ、と感心した記憶だけが残っていました。

 その堀君が人人会の会員だったことも、当然知りません。最初の推薦は美術博物館の大野さんでしたが、各方面から推薦があり、企画展として採り上げた結果、それがきっかけとなって高畑郁子先生ともお近づきになりました。

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MOTTIのギャラリーだより(その5)

 平成20年3月の第34回人人展を東京都美術館で見て、大野学芸員がその会員であり、絵を描く人であるということを知ったのですが、その絵を見た瞬間、私には以前のおぞましい記憶が甦りました。

 平成17年に私の息子が結婚をしたとき、押入れで埃をかぶっていた1枚の絵を取り出し、額装をして門出にと渡しました。それは私の父が50年ぐらい前に買った田中圭一さんの絵で、暗い感じの絵が多い圭一作品の中では異色の、明るい海の絵でした。砕け散る波に洗われる大きな岩の「揺るぎない孤独」のようなものが圭一先生の心情と重なるかのようで(というのは私の父の評価ですが)、これは息子にちゃんとした額に入れてプレゼントしようと思っていました。その額を買いに行った先はギャラリーを併設していて、包装の間に見ようかと思ったのですが、ギャラリーに入ったとたん、「なんじゃ、こりゃ!」と目を覆いたくなりました。人間の醜い内面を描いたと思しき作品群に、息子への門出の祝が台無しにされたような気がして、なんとも嫌な気分でその店を出ました。

 大野俊治という名前は全く覚えていませんでしたが、都美術館で見た大野さんの作品は、あの時の作家のものだとすぐに分かりました。あの丸顔の、ドッジボールが笑っているみたいな大野さんが、こんな絵を描く・・・。「いかがでしたか」と出口で当番の会員の方に聞かれ、「いや、ちょっと、なんとお答えしていいか」と口ごもっていると、事務局長と名乗った方が「そうでしょ。わかりますよ」と、楽しそうな表情を浮かべ、名刺をくれました。作品から受ける衝撃もさることながら、作家の皆さんと話すと、ごく普通の人だということが大きなショックでした。

 ところが、人人会の展覧会も3年連続して見るうちに、「大野さんの作品も最近は角が取れたなぁ」と思うようになりました。変わったのはどちらなのでしょうか。

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MOTTIのギャラリーだより(その4)

 名豊ギャラリーに赴任して最初に企画したのは大森運夫先生の展覧会でした。平成20年1月、船橋市の先生のお宅を訪ね、恐る恐る展覧会をやらせてほしいとお願いすると、「画家は自分の絵を多くの人に見てもらうのが嬉しいんです。企画展ということなら、是非、お願いします」と快諾をいただき、その後は私が豊橋中部中学の出身であることから、大森先生が中部中学で教師をしておられたころの昔話で大いに盛り上がりました。

 画家ってのは気難しくって、変なことを言ったら怒らせちゃうんじゃないか、と思っていたのですが、とても優しいお人柄に接し、初対面なのにいろんなことをお尋ねしました。今でもあんなことを聞いて良かったのか、と冷や汗交じりに思い出すのは、「先生の絵は、なんだかやたら手を大きく描かれますけど、あれは何か意図があってのことですか」と質問したことです。言葉を発しながら「こんな聞き方はまずいかなぁ」と思ったのですが、先生は愉快そうに笑って、プロになった第1作が母子像だった、それが"腕がたくましい"ということで話題になった、父親が早く死んで母親に苦労をかけたので、たくましい母親というものが絵に出るのかもしれない、といったことを話されました。

 また、展覧会についての先生のご要望は?とお尋ねすると、「僕は絵を描くだけの人間なんで、展覧会をどんな風にやるか、ということは分かりません。豊橋なら美術博物館の大野さんに相談して決めてください」とのご返事でした。ここから大野学芸員との"お付き合い"が始まりました。2回目に大森先生のお宅を訪問したのが3月で、大野さんから、ちょうど東京都美術館で人人展をやっているから見て行ってください、と入場券をいただいたのですが、ここから私の感性は怪しく捻じ曲がり始めたのかもしれません。

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MOTTIのギャラリーだより(その3)

 ブリジストン美術館の見学は、それでもボンヤリと見ていただけではありません。おお、青木繁の「海の幸」じゃん。これって教科書に載ってたよなぁ。しかし意外に小さいなぁ。これ本物か。などと、しょうもないことを考えながらですが、見るには見ました。

 ミレーの「乳しぼりの女」は夕暮れ時に農婦が牝牛の乳を搾っている様子がとてもよく表現されていると思いましたが、牛がなんだか痩せていて、こんな牛で乳が出るのかとも思いました。ずいぶん生産性の低い仕事をしているなぁと。それともミレーって牛を描くのが苦手なのか、とも。

 デュフィの「オーケストラ」という絵は、「音楽をやっている」ことになっている私としては一言、文句を付けたくなりました。弦楽器を客席から見て左側に集め、管楽器が右側に並んでいるのです。普通は最前列に左からバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスと並べて行くだろうに、左側に手前からバイオリン、奥の方に向かってチェロやコントラバスという並べ方をするなんて、これはないよな!と思ったのです。

 帰宅して家内にそれを言いました。ミレーは牛の描き方が下手だ、デュフィはオーケストラを知らない、と。家内は「良かったわね。人にそれを言う前に私に言っておいて」と冷ややかに言いました。そして「ミレーはバルビゾン派の画家なの。この人たちは貧しい農村を描いているのよ。だから、牛は痩せているの。晩鐘だって、落穂拾いだって、人物の服装は粗末なものでしょ?それから、デュフィは音楽家の息子なのよ。オーケストラの編成はいろんな形があるんじゃないの?あなたは豊饗しか知らないから、・・・」と。

 言われっ放しでは悔しいので、翌日、豊橋交響楽団の関係者に聞くと、「ああ、デュフィの絵?N饗も時々そういう編成をやってるよ」とあっさり言われてしまいました。

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MOTTIのギャラリーだより(その2)

 恥を忍んで、美術についての無知、無教養ぶりを書いておきます。ギャラリー勤務の内示を受けたのは平成19年9月中旬のことでした。赴任日までは2ヶ月余りありましたから、少しは勉強をしておこうという気になりました。その間に、2度ほど東京へ出張する機会があったので、ブリジストン美術館と出光美術館へ寄り道しました。

 ブリジストン美術館はあまりの広さにびっくりしました。内示を受けた後で、名豊ギャラリーとはどんなところかと覗いてみて、「画廊っていうのはこういうものか」と予備知識は持ったのですが、まぁ、美術館というからには、あれぐらいの展示室が4つか5つあるんだろうなと予想してブラリと入ったら大間違い。どこをどう回って出てきたのか、ろくに覚えていませんが、やたら展示室が多くて、とにかく疲れました。

 中学時代に教科書で見たような作品がいくつも並び、警備員が大勢いるのにも驚きましたが、たまたま架かってきた携帯電話に出たら、すぐに警備員が飛んできて「お客さま、恐れ入りますが」と注意されたことも驚きでした。

 しかし、最初の感想はと言えば、「タイヤの商売ってこんな美術館を創れるぐらい儲かるんだ。たしか鳩山兄弟の母親は石橋家の出だよな。あの資金力はすごいらしいからなぁ」というものでした。銭勘定スペシャリストの私としては当然の感想でしょうね。その後は、数分の間に出てくる人数を数え、1日にすれば何人、単価いくらで、年商はいくら、しかし、人件費はあの人数だとけっこうかかるし、労働分配率は60%を超えちゃうぞ、図録の販売は収支トントンとして、うーん、美術館の運営は赤字だなぁ、しかし、それを補填してやっていけるほどにタイヤは儲かるんだ!磨り減ったタイヤは危険ですなんて言ってるけど、磨り減らないタイヤを作れよな・・・などと思いながら、帰途についたのでした。

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MOTTIのギャラリーだより(その1)

 名豊ギャラリーの望月と申します。平成19年12月にギャラリーの所長として赴任し、満4年になろうとしています。元々は銀行員で、名古屋、京都、横浜などを転々としながら、主に融資の仕事をしていました。

 昭和62年に中部ガスの傍系会社に転職し、そこでは総務、経理などの仕事をしました。つまり、カネにまつわる仕事ばかりをしてきたわけです。それが定年後の再雇用として、何の知識も持たぬ美術の分野をやれと命じられたのです。

 それまでの私は、「今の世の中、銭勘定のできない奴は生きていけない」とか、「文化なんぞで腹がふくれるか」などと、芸術を見下すような言葉を平然と言い放っていました。それがギャラリーの所長ですからね。どう考えたって、まともに務まるわけがないと思いましたが、「業務命令に従えない奴はクビだ」と言い続けてきた者としては、従わないわけにはまいりません。

 「ギャラリーの評判が落ちたって、命じたほうにも責任があらぁな」ぐらいの気持ちで赴任しました。しかし、そうは言うものの、「何で俺が?」という疑問は消えませんので、あるとき経営トップにそれとなく聞きました。すると「君は音楽をやってるから、絵も分かるだろう?」と。・・・なんと、私が音楽をやっている・・・とトップは思っていらっしゃった・・・。

 たしかに「ふんけんクラブ」という合唱団で歌っていることは事実です。しかし、あれを音楽というのか・・・。いや、それは合唱ですから、音楽には違いないですが、経営トップの思う音楽とは、似て非なるもののはずなのです。

 「ふんけんクラブ」のことは別の機会にご紹介したいと思いますが、ともあれ、私のギャラリー勤務は始まりました。4年間でいろんな経験をしましたが、その結果、私の文化・芸術に対する思いも変わってきました。

 「銭勘定のできない奴は生きていけない」という考えは変わりませんが、それにこんな言葉を付け加えたいと思います。「銭勘定しかできない奴は生きる値打ちがない」と。

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